映画『死刑にいたる病』は、連続殺人犯・榛村と大学生・雅也の心理戦を描いた異色のサスペンスです。
中でもラストに登場する“最後の女”、加納灯里の存在は物語の解釈を一変させる衝撃を残しました。
彼女は本当に「逃げた子」なのか?
灯里は新たな犯人なのか?
その不可解な行動、そして「剥がしたくなる?」という挑発的なセリフの意味とは──。
この記事では、『死刑にいたる病』のラストシーンが問いかける本質と、最後の女=灯里を巡る深層心理を考察します。
「死刑にいたる病:最後の女」が示す“狂気の継承”とは
映画『死刑にいたる病』は、24人もの高校生を殺害し死刑判決を受けた連続殺人犯・榛村大和と、彼に手紙を送られた大学生・筧井雅也の対話から始まる、心理サスペンスの極地ともいえる作品です。
特に、ラストで突如登場する女性「加納灯里」が物語全体に投げかける影は大きく、観る者の記憶に深く刻まれます。
灯里の正体は「逃げた子」なのか?

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冒頭で描かれるのは、榛村によって監禁された少女が脱出するシーン。
彼女の証言が榛村逮捕のきっかけになったとも示唆され、「逃げた子」として話題になります。
では、灯里はその“逃げた少女”なのでしょうか?
多くの考察では、灯里がその少女だと推測されています。
中学生時代に雅也と出会っていた点や、被害者資料を持ち歩いていた点、爪や血に対する異常な執着などが、その裏付けとされています。
一方で、灯里の身体に目立った傷がなく、直接的な証拠がないことから「別人説」も根強く残っています。
結論としては、観る側の解釈に委ねる構成である以上、「逃げた子=灯里」である可能性は高いが、確定的なことは描かれていないと見るのが妥当でしょう。
加納灯里は犯人なのか?それとも共犯者か

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映画終盤、灯里が発する「剥がしたくなる?」という台詞や、雅也の傷口から血を舐める行動は、榛村に酷似した異常性を感じさせます。
彼女のカバンからこぼれ落ちたのは、被害者の写真や、榛村との文通記録。
これらは偶然ではなく、灯里が“何かを知っていた”、あるいは“加担していた”可能性を強く示唆しています。
ただし、映画では彼女が実際に犯行を行った描写はなく、法的な意味での「犯人」とは言い切れません。
ですが、榛村の“病”とも言える異常性が灯里に感染している構造上、彼女が「精神的な共犯者」であることはほぼ間違いないと考えられます。
「爪は綺麗でしたか?」に込められた心理と象徴

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雅也が榛村に問う「爪は綺麗でしたか?」というセリフ。
これは榛村の異常性の根源を突く、象徴的な問いかけでした。
榛村は、過去の被害者の爪を収集していた描写があり、これは単なる猟奇性ではなく、母親への執着や幼少期の記憶と強く結びついていると解釈されています。
また原作小説では、「爪にはその人の生き方が現れる」といった主旨のセリフがあり、爪は“人格の象徴”としての役割を担っていました。
映画でも、灯里が爪や血に執着する場面があり、それは榛村から彼女へ“精神の病”が継承されたことを暗示しています。
榛村の病は灯里に感染したのか?

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物語を通して強調されるのは、「榛村の病=精神的支配」が他者に感染していく構図です。
榛村は拘置所からでも雅也や灯里に手紙を送り続け、彼らの心を操ろうとしました。
最終的に雅也はその支配から抜け出すことができましたが、灯里はどうだったのか?
ラストで見せる彼女の不気味な振る舞いは、すでに榛村の“後継者”として覚醒している姿とも読めます。
彼女の表情や所作には、もはや理性が通用しない“狂気”が垣間見えました。
ラストの意味は“終わり”ではなく“始まり”

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榛村の死刑確定、雅也の覚醒——それで終わったはずの物語。
しかし灯里の登場により、“病の物語”は終わらないという事実が突きつけられます。
「最後の女」は、物語のエピローグではなく、プロローグでもあるのです。
観客は「雅也は灯里とどうなるのか」「病は本当に断ち切れたのか」といった問いを突きつけられたまま、暗転の中で映画を終えることになります。
これは作者・監督が意図的に仕組んだ“終わらない余韻”であり、極めて現代的な不安を描いた構造と言えるでしょう。
小説と映画で描かれた「死刑にいたる病 最後の女」の差異

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小説版の灯里に見る“群像の一人”という位置づけ
原作小説では、灯里はそれほど重要なキャラクターとしては描かれていません。
榛村が獄中から送った手紙の“受け取り手の一人”という位置づけであり、特段大きな事件を起こしたり、物語のラストに影響を与えるような存在ではないのです。
つまり、小説における灯里は「心理操作の被験者」の一例に過ぎず、映画のような“ラストで世界をひっくり返す象徴的存在”とは大きく異なります。
原作における灯里はどのように描かれていたか

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小説では、灯里の登場は淡く、彼女の内面描写も控えめです。
彼女が榛村に手紙を送ったか、送られたかの関係性もはっきりとは明かされていません。
そのため、映画のように彼女の一挙手一投足に物語が収束していく構造にはなっていません。
また、原作では榛村の支配が複数の登場人物に分散されており、灯里だけが“後継者”になるという設定も存在しません。
映画版の灯里は、そうした群像的要素を一人に凝縮したキャラクターと言えます。
映画で「最後の女」として昇華された灯里の演出

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映画版では、灯里は終盤になってようやく登場し、それまで静かに積み重ねられてきた榛村の狂気を、再び観客に突きつける“狂気の代弁者”として描かれます。
彼女が発する一言一句、動きのひとつひとつが、不穏で異様で、明確に“感染した存在”であることを示しています。
榛村が肉体として死んだ後も、「病」は生きている。その象徴として灯里が配置されたのです。
「死刑にいたる病 最後の女」:まとめ
『死刑にいたる病』において、加納灯里というキャラクターが担う役割は、原作と映画とで大きく異なります。
小説では“ひとりの可能性”に過ぎなかった彼女が、映画では“狂気の象徴”として物語の終幕を攪乱する存在へと昇華されています。
ラストで彼女が雅也に語る一言、「剥がしたくなる?」。
それは観る者自身にも問いを投げかけるものです。「あなたの中にも、この“病”は潜んでいないか?」と。
『死刑にいたる病』は、表面的には榛村の犯罪とその検証の物語ですが、本質的には“狂気とは何か”“支配とは何か”という、人間の根源にある恐怖を描いた作品です。
そして、「最後の女」灯里の存在は、その恐怖が終わらないこと、日常にも潜んでいることを私たちに突きつけるのです。