ジョーカー2はつまらない?そう感じる3つの理由と反論・見どころ

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社会現象を巻き起こした前作から5年。トッド・フィリップス監督とホアキン・フェニックスが再びタッグを組み、新たにレディー・ガガを迎えた『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。しかし、公開後ネット上では「ジョーカー2 つまらない」「期待外れだった」という厳しい声も少なくありません。前作の衝撃を知る者として、その評判に戸惑い、鑑賞をためらっている方も多いのではないでしょうか。

本記事では、映画ライターである筆者が、なぜ本作が「つまらない」と評されるのか、その理由を深く分析します。同時に、そうした評価の裏に隠された、本作が持つ唯一無二の芸術性や魅力を徹底的に解説。この記事を読み終える頃には、あなたの『ジョーカー2』に対する評価は、きっと変わっているはずです。

結論:「つまらない」と言われる主因は〈ミュージカル転換/前作との作風差/ハーレイ像の解釈違い〉の3点です。本文では各理由を短く整理し、どんな人に刺さるかも具体的に示します。

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なぜ『ジョーカー2』は「つまらない」と感じられてしまうのか?3つの大きな理由

まず、本作に対してネガティブな感想が生まれる背景には、いくつかの明確な要因が存在します。それらは決して作品の欠陥というわけではなく、むしろ監督の意図的な「挑戦」の結果とも言えるでしょう。多くの観客が抱いたであろう違和感の正体を、3つのポイントから紐解いていきます。

なぜ『ジョーカー2』は「つまらない」と感じられてしまうのか?3つの大きな理由

なぜ『ジョーカー2』は「つまらない」と感じられてしまうのか?3つの大きな理由

  • 前作の社会派スリラー期待→合わない可能性大
  • ミュージカル表現を楽しめる→刺さる可能性大
  • 演技・映像・音楽重視→見どころ多い

理由①:ミュージカル転換が合わない/期待外れに感じる

本作が「つまらない」と言われる最大の要因、それは間違いなく「ミュージカル」というジャンルへの大胆な舵切りです。予告編から示唆されてはいたものの、その構成は多くの観客の想像を遥かに超えるものでした。

前作『ジョーカー』は、徹底したリアリズムで描かれる社会派スリラーでした。ゴッサムシティという社会の底辺で、アーサー・フレックという一人の男が精神的に追い詰められていく過程を、ドキュメンタリーのような生々しさで描き、観る者の胸を抉りました。しかし、今作はその手法を自ら破壊するかのように、アーサーとハーレイの心情を歌とダンスで表現します。現実のシーンと、彼らの心象風景であるミュージカルシーンが頻繁に入れ替わる構成は、前作のファンであればあるほど「これは私の知っているジョーカーではない」という戸惑いを感じさせるのです。

特に、シリアスな場面で突然始まる歌唱シーンは、物語への没入を妨げ、感情移入を難しくさせると感じる人も多いでしょう。この急な作風の変化が、多くの観客にとって「期待していたものと違う」という感想、ひいては「つまらない」という評価に直結している最大の理由と言えます。

前作のリアリズムを期待した観客にとって、唐突に感じられるミュージカルシーンの多用が、物語への没入感を削ぎ、「つまらない」という評価の根源となっています。

理由②:前作の社会派スリラー感が薄れた“物足りなさ”

ミュージカル要素とも関連しますが、本作は前作が持っていた「社会への鋭い問いかけ」という側面が大きく後退しています。これが、物語の深みを求める観客にとって物足りなさを感じさせる要因となっています。

前作は、貧困、格差、社会の無関心といったテーマを背景に、アーサーがジョーカーへと変貌する過程を描くことで、観客一人ひとりに「誰が彼を怪物にしたのか?」という重い問いを突きつけました。しかし、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の舞台は、そのほとんどがアーカム精神病院の内部。物語はアーサーとハーレイという二人の関係性に焦点を絞り、極めて閉鎖的でパーソナルな領域へとシフトします。社会的なテーマよりも、二人の内面世界、つまり「Folie à Deux(二人だけの狂気)」を描くことに主眼が置かれているのです。

この変化により、「社会を映す鏡」としてのジョーカーを期待していた観客は、スケールダウンしたと感じてしまう可能性があります。脚本の鋭さが失われ、ただの「狂ったカップルの恋物語」に見えてしまう。これもまた、「つまらない」という感想を抱かせる一因でしょう。

社会問題を鋭く描いた前作に対し、今作はアーサーとハーレイの個人的な関係性に焦点を当てています。このテーマの変化が、前作のような深みを期待した層には物足りなく映り、「つまらない」という評価につながっています。

理由③:ハーレイ像の解釈違いで“微妙/違和感”が生じる

レディー・ガガが演じるハーレイ・クインのキャラクター造形も、賛否が分かれるポイントです。従来のコミックや映画で描かれてきた彼女とは異なる解釈が、一部のファンにとっては受け入れがたいものだったかもしれません。

本作のハーリーン・クインゼル医師は、単にジョーカーに心酔する無力な存在ではありません。彼女自身が深いトラウマと闇を抱え、アーサーの中に自分と同じ「痛み」と「解放」を見出し、積極的に彼を狂気の世界へ導いていくパートナーとして描かれます。二人の関係は、支配・被支配ではなく、互いの狂気を映し合い、増幅させ合う「共犯関係」です。この対等な関係性は、アーサーの孤独な狂気を描いた前作とは大きく異なります。

この新しいハーレイ像は非常に魅力的である一方、アーサーというキャラクターの持つ「絶対的な孤独」を薄めてしまった、と感じる観客もいます。理解者が現れたことで、前作の根幹にあった悲壮感が薄れ、物語の緊張感が失われたと捉えることもできるのです。この関係性の変化が、前作のアーサーに強く感情移入したファンにとって、違和感や「つまらない」という感情を生んでいます。

レディー・ガガ演じるハーレイ・クインが、アーサーと対等な「共犯者」として描かれることで、前作の核であったアーサーの「孤独」が薄まったと感じられ、物語の質が変わったことが「つまらない」という評価の一因となっています。

しかし、駄作ではない!『ジョーカー2』が持つ唯一無二の魅力と芸術性

ここまで「つまらない」と言われる理由を分析してきましたが、それはあくまで一面的な見方です。視点を変えれば、これらの批判点はすべて、本作が挑戦した革新的な魅力へと反転します。ここからは、本作を駄作で終わらせない、その核心的な価値について語らせてください。

魅力①:ホアキン・フェニックスとレディー・ガガ、二人の狂気が共鳴する圧巻の演技

本作の評価を語る上で、主演二人のパフォーマンスを無視することは絶対にできません。ホアキン・フェニックスの狂気と、レディー・ガガの情熱がスクリーン上で火花を散らす様は、まさに圧巻の一言です。

アカデミー賞をもたらしたアーサー役を、ホアキンはさらに深化させています。前作の痛々しい孤独から一転、パートナーを得たことで見せる微かな高揚と、それでも拭えない虚無感。その繊細な変化を、痩せこけた身体と表情だけで見事に表現しています。そして、何より衝撃的なのがレディー・ガガ。世界的シンガーである彼女の歌唱力はもちろんのこと、精神科医としての知的な顔と、アーサーに呼応して狂気に堕ちていく顔の演じ分けは、本作の成功を決定づけています。二人が織りなすミュージカルシーンは、単なる歌ではなく、魂の対話であり、激情のぶつかり合いです。この演技合戦を観るだけでも、本作には十分な価値があります。

ホアキン・フェニックスとレディー・ガガによる、魂を削るような演技の応酬は本作最大の見どころ。彼らのパフォーマンスが、この特異な物語に圧倒的な説得力をもたらしています。

魅力②:精神病院を舞台にした閉塞感と幻想的な映像美

物語の舞台をアーカム精神病院に絞ったことは、スケールダウンではなく、むしろテーマを先鋭化させるための意図的な演出です。トッド・フィリップス監督は、限定された空間だからこそ可能な、幻想的で美しい映像世界を構築しました。

灰色で無機質な病室や廊下が、二人の心象風景の中では、時に華やかなステージに、時に嵐の海へと変貌します。この現実と幻想のコントラストが、彼らの精神状態を巧みに表現しているのです。特に、光と影を効果的に使った撮影は、まるでクラシック映画のような風格を漂わせています。前作のザラついた映像とは対照的な、計算され尽くした構図の数々は、一枚一枚が絵画のような芸術性を宿しており、観る者を陶酔させます。この映像美こそ、本作が単なる続編ではない、独立した一つのアート作品であることを証明しています。

アーカム精神病院という閉鎖空間を逆手に取り、現実と幻想が交錯する芸術的な映像美を創出。本作の持つ独特の世界観を支える重要な要素です。

魅力③:心を掻き乱すヒドゥル・グドナドッティルの音楽

前作でアカデミー作曲賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルが、今作でもその才能を遺憾なく発揮しています。彼女のオリジナル・スコアが登場人物の内面に重層的な陰影を与える一方で、本作は既存の有名曲のカバーが多数用いられる“ジュークボックス的”構成でもあり、両者がせめぎ合う独特の音楽体験を生み出しています。

具体的には、誰もが知るスタンダード/既存曲の再解釈が物語の要所に挿入され、その“聞き覚えのある旋律が別の意味を帯びる”感覚が、アーサーとハーレイの危うい心理を際立たせます。同時に、グドナドッティルのスコアは彼女らしい重厚なチェロの響きを核に、場面ごとに異なる動機を編み込み、歌唱シーンと劇伴の境界を揺らがせます。ミュージカルシーンが単なる余興に見えないのは、こうしたスコアとカバー曲の呼応が、物語の底流にある感情と緊密に結びついているからです。

ヒドゥル・グドナドッティルのスコアと、多数の既存曲カバーという編成がせめぎ合うことで、本作のミュージカル的要素に独自の説得力と芸術性が宿っています。

SNSでのリアルな感想・評判まとめ【ネタバレなし】

ここでは、SNSで見られた『ジョーカー2』に関するリアルな声を、肯定的な意見と否定的な意見に分けてご紹介します。

肯定的な意見:「芸術的」「二人の演技が最高」

「ジョーカー2、賛否両論わかるけど私は大好き。これは映画館で観るべきアート作品。ホアキンとガガのケミストリーが凄まじい。」

「ミュージカルが苦手だったけど、これは別物。二人の心の叫びだった。音楽と映像が美しすぎて鳥肌が立った。」

「前作とは全く違うけど、続編としてこれ以上ない形だと思う。安易に前作をなぞらなかった監督の覚悟を感じる。」

否定的な意見:「退屈」「期待外れ」

「ジョーカー2、正直つまらない…。ミュージカルシーンが長くて退屈だった。前作の緊張感はどこへ?」

「ストーリーがほとんど進まない。ただ二人が歌って踊ってるだけに見えた。前作のファンとしてはガッカリ。」

「レディー・ガガは良かったけど、ハーレイ・クインがジョーカーを導くみたいな展開は解釈違いかな…。アーサーの孤独が好きだったのに。」

まとめ:『ジョーカー2』は「つまらない」のか?――これは、愛と狂気のオペラである

改めて問います。『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は本当につまらない映画なのでしょうか。

もしあなたが、前作のような社会派スリラーや、手に汗握るエンターテイメントを期待しているのなら、おそらく「つまらない」と感じるでしょう。本作は、その期待を意図的に裏切ることで、全く新しい領域へと踏み込んでいます。

これは、社会から隔絶された二人が、お互いの中にだけ世界を見出し、狂気という名の愛を育む、悲しくも美しいオペラなのです。ミュージカルという手法は、彼らの壊れた精神を表現するための、必然的な選択でした。論理や理屈では語れない魂の共鳴を、歌とダンスを通して描いた、極めて野心的で芸術的な一作です。

「つまらない」という一言で切り捨てるのは、あまりにもったいない。ぜひ、先入観を捨てて、ホアキン・フェニックスとレディー・ガガが織りなす狂気のデュエットに身を委ねてみてください。きっと、あなたの心に忘れられない傷跡と、深い感動を残してくれるはずです。

あなたはこの狂気の愛の物語を、どう受け止めますか?

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に関するFAQ(よくある質問)

Q1: 前作『ジョーカー』を観ていなくても楽しめますか?

A1: 楽しむことは可能ですが、前作を観ておくことを強くお勧めします。本作は前作の直接的な続編であり、主人公アーサー・フレックがジョーカーになった経緯や彼の精神状態を理解していると、物語への没入感が格段に深まります。特に、前作のテーマであった「孤独」が、今作でハーレイと出会うことでどう変化するのかが重要なポイントになります。

Q2: ミュージカルが苦手なのですが、観ても大丈夫でしょうか?

A2: いわゆる『ラ・ラ・ランド』や『グレイテスト・ショーマン』のような陽気なミュージカルとは全く異なります。本作の楽曲シーンは、登場人物の幻想や精神世界を表現する芸術的な手法として使われています。楽しいというよりは、切なく、不穏で、心を掻き乱されるようなものが多いです。新しい形の映画表現として、挑戦してみる価値は十分にあると思います。

Q3: この映画のタイトル『フォリ・ア・ドゥ』とはどういう意味ですか?

A3: 『フォリ・ア・ドゥ(Folie à Deux)』はフランス語で、日本語では「感応精神病」や「二人狂い」と訳される精神医学の用語です。妄想を持つ一人の人物(主に主導者)と密接な関係にあるもう一人の人物が、その妄想を共有するようになる状態を指します。まさに、アーサー(ジョーカー)の狂気がハーレイに「感応」し、二人だけの世界を築いていく本作のテーマそのものを表しています。

 

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