『恋は雨上がりのように』は、女子高生と中年男性の“心の交流”を描いた異色の恋愛作品として多くの話題を呼びました。
しかしその一方で、「気持ち悪い」「結末にモヤモヤが残る」「おっさんのことは忘れるぞってどういうこと?」といった声も多く、読者の間で賛否が大きく分かれたのも事実です。
特に最終回後には、作者逃亡というショッキングなワードまでネット上を駆け巡り、ブログ閉鎖や炎上騒動など、作品外でのドラマも展開されました。
本記事では、そんな『恋は雨上がりのように』について、印象的だった気まずいシーンや読後に感じる“余韻”の正体、描かれなかった後日談の考察、そして「もし結婚していたら?」という妄想も交えながら、結末の意味をじっくりと考察していきます。
作品の本質とは何だったのか。なぜこれほどまでに多くの読者の心をざわつかせたのか──その答えを一緒に探ってみましょう。
1. 『恋は雨上がりのように』とは?あらすじと作品概要
『恋は雨上がりのように』は、ざっくり言えば「中年男性と女子高生の恋心」を描いた作品です。
原作は眉月じゅんさん。恋愛漫画っぽく見えるかもしれませんが、実際にはもっと複雑で深いテーマが込められています。
単なる年の差ラブストーリーではなく、「人生の再出発」や「青春の終わり」、そして「大人と子どもの境界線」といった心理的なテーマを丁寧に描いているんです。
主人公は、怪我によって陸上競技を諦めた女子高生・あきらと、夢を追うことをやめてしまった中年のファミレス店長・近藤。そんな二人の交差する時間が、淡く、でも確かにお互いの人生を変えていく様子が描かれていきます。
2018年には小松菜奈さんと大泉洋さんの主演で実写映画化もされました。
映像化されたことで、あきらの無垢な思いと、近藤の複雑な感情がより視覚的に伝わるようになり、感情の揺れが繊細に表現されていました。
キラキラした恋愛モノかと思いきや、読後(あるいは観終わったあと)にはどこか切なく、じんわり心に残るような作品です。
思春期特有の真っ直ぐさと、大人の諦めと再生が交錯するその空気感に、多くの読者・視聴者が引き込まれました。
2. 「気持ち悪い」と言われる理由は?|年の差恋愛が生んだ違和感
本作に対して「気持ち悪い」と感じる人が一定数いるのは事実です。
その大きな理由のひとつが、中年男性と高校生女子という、現実的には問題視されがちな年の差恋愛をテーマにしている点です。
このような関係性を正面から描いたことに、倫理的な違和感や気持ち悪さを感じるという声は少なくありません。
ただ、本作はそのセンシティブな題材を、直接的にロマンスを描くのではなく、むしろ微妙な距離感を保ちながら展開していきます。
作中で二人が決して明確に恋人関係になるわけではなく、互いに影響を与えながらも、それぞれが別の方向へ歩いていく構成になっているのです。
この“未完成”とも言える関係性が逆に読者の想像力を刺激し、「気持ち悪い」と感じる人と、「儚くて美しい」と受け取る人との間で意見が大きく分かれたとも言えるでしょう。
一方で、その関係をあくまで「人生の一日」として淡く描いた点や、恋心よりも“再出発”をテーマにしていた部分に感動した読者も多く、まさに賛否両論な作品といえます。
3. 気まずいシーンやモヤモヤポイントまとめ
本作には、「え、今のやばくない?」「気まずい…」と思ってしまう場面が何度か登場します。
たとえば、女子高生のあきらが感情をストレートにぶつけるシーンや、それを受け止めきれずに戸惑う店長・近藤の複雑な表情。また、あきらの行動や言葉に、明確に「恋」とは言えない微妙なニュアンスが含まれていたりして、その空気感がなんとも言えず居心地の悪さを誘います。
見ている側としては、「この関係、どこに向かうの?」とソワソワしてしまいますよね。
年齢差や立場の違いが大きく、それがある種の“禁断”として描かれているようにも見えるため、余計に緊張感が走る瞬間が多いのです。
でも、その“モヤモヤ”が逆にリアルだったりもします。
現実の人間関係も、明確な答えが出ないまま揺れ続けるものってありますよね。
年齢や立場を超えて惹かれ合ってしまう瞬間が、理屈抜きで訪れることもある。
その葛藤や戸惑いをうまく描いていたからこそ、「気まずい=リアル」と感じた人も多かったのではないでしょうか。
そうした気まずさや違和感に正面から向き合った姿勢が、この作品の独特な魅力でもあり、賛否の分かれ道でもあるのかもしれません。
4. 「おっさんのことは忘れるぞ」で炎上?誤解を呼んだブログ騒動
本作で一部読者をザワつかせたキーワードが「おっさんのことは忘れるぞ」です。
これは、実際に作中で近藤店長が口にしたセリフであり、終盤において彼自身が“あきらとの出来事を胸にしまって前に進もう”とする決意の一言でした。
厳密には「橘さんのことは忘れるぞ」と自分に言い聞かせるように発言しています。
この言葉には、大人としてのけじめや再出発の覚悟がにじんでおり、恋心に終止符を打ちながらも、どこか未練や切なさも含まれた名シーンです。
しかし一部の読者の間では、このセリフが強烈に印象に残ったことで、「あきらの感情は無駄だったの?」「あれだけの時間を過ごしておいて忘れるのか?」とモヤモヤやショックを感じた人も多く、SNSでは「おっさんのことは忘れるぞ」というフレーズが象徴的に取り上げられるようになりました。
さらには、作者のブログの文脈とも混同される形で、「あきらが店長を忘れるということなのか?」と誤った解釈が広まり、軽い炎上状態に。後に作者は、「“忘れる”というのは店長視点のものであり、実際にあきらが完全に忘れるという意味ではない」と説明しています。
この一連の反応からは、作品の余韻の強さと、読者の想像力がどれほど作品に深く入り込んでいたかがうかがえます。
5. 作者逃亡説の真相|ブログ閉鎖とその背景
この一連の炎上によるものかはわかりませんが、眉月じゅんさんは自身が運営していたブログ「レイレイタン」を閉鎖することになりました。
ブログの閉鎖という行動は、それまでファンとの交流の場でもあったため、読者にとっては大きな衝撃でした。
そして、タイミングが炎上騒動と重なったこともあり、インターネット上では「逃げた」「姿を消した」といった声が上がり、「作者 逃亡」というセンセーショナルな検索ワードが急浮上する事態となったのです。
しかしながら、実際には法的な問題や何らかの公的トラブルがあったわけではなく、いわゆる“逃亡”という言葉はかなり誇張された表現と言えるでしょう。
ブログ閉鎖の背景には、誤解されたまま発信を続ける精神的な負担や、創作活動と読者からの期待・プレッシャーとの間での葛藤があったのではないかと推測されます。
さらに、原作連載終了後に新しい作品の発表が途絶えていたことも、ファンの間で「活動休止では?」という憶測を呼び、結果として“逃亡”という強い表現に繋がってしまったのかもしれません。
ファンの多くは作者の静かな創作期間と受け取っていた一方で、一部の過激な声がSNSなどを中心に拡散されたことで、あたかも事件があったかのように語られてしまったのです。
この出来事は、作家が読者との距離感をどう保つかという点でも考えさせられるものであり、作品への愛情が時に過剰な期待や誤解を生むことの怖さも同時に浮き彫りにした事例と言えるでしょう。
6. 原作と映画の結末を比較|読者に委ねられたその後
原作の結末は、恋愛としては成就しないけれど、それぞれが自分の夢に向かって歩き出す――という爽やかで前向きな終わり方です。
一方、映画版はややふんわりとした印象で、感情の深堀りよりも空気感を重視した演出が光っていました。
この「片思いのまま終わる」「くっつかない」という結末に納得できない読者もいましたが、同時に「大人になっていく物語」として高く評価する声もあります。
後日談やその後を描いてはいませんが、それがかえって想像の余地を残しています。
7. 近藤とあきら、結婚の可能性は?読者の妄想と現実
ネット上では「いつかあの二人、再会して結婚したりして…」なんて妄想もちらほら見かけます。
確かにロマンチックな想像ですし、物語のその後を夢見たくなる気持ちはとてもよくわかります。
特に感情移入した読者ほど、二人が再び出会い、今度は年齢や環境の障害なく結ばれるハッピーエンドを望んでしまうのは自然なことかもしれません。
しかし、原作の雰囲気やストーリー全体のトーンを振り返ると、それはやや“夢見がちすぎる”展開だとも言えます。
本作はファンタジーではなく、現実に限りなく近い世界を舞台にした人間ドラマであり、淡くも確かな一瞬のつながりを大切に描いています。
近藤は夢を追い、あきらも再び陸上に向き合う。それぞれが別々の道を選び、前へと進むことを選択した未来こそが、この物語の本質的な魅力です。
再会や結婚といった“未来の確約”ではなく、「今この瞬間に心が通じ合った」という儚さの中に、美しさやリアリティがあるのです。
結婚という現実的な接点よりも、むしろ「一瞬の心の交流」が持つ力や、そこから得られる変化の方がずっと大切なのではないでしょうか。
だからこそ、この作品は単なるラブストーリーでは終わらず、多くの読者の心に余韻を残し続けるのです。
. 結
局、『恋は雨上がりのように』はどんな物語だったのか【考察まとめ】
ここまで読み解いてきて思うのは、『恋は雨上がりのように』は「恋愛漫画」というよりも、「人生のある交差点を切り取った作品」だということです。
物語に登場する恋という感情は確かに存在しますが、それは単なるロマンスにとどまらず、人生における“選択”や“再起”を象徴する要素として描かれています。
主人公たちは、恋愛を通して自分の弱さや過去と向き合い、そこから一歩を踏み出していきます。
あきらは怪我という挫折を乗り越えて再び夢に向かう強さを見せ、近藤は忘れかけていた作家としての情熱を取り戻します。
このように、本作では“恋を通して人生をどう再構築するか”が軸となっていて、それこそが多くの読者の共感を呼ぶ要因となっているのです。
「気持ち悪い」と感じた人、「感動した」と胸を打たれた人、そして「なんだかモヤモヤした」と思った人――どの反応も、作品がそれだけ強く感情を揺さぶった証です。
読者それぞれの立場や人生経験によって、まったく違った読み取りができるのも、この作品の大きな魅力の一つ。
それが『恋は雨上がりのように』という物語が今なお語り継がれ、時を経ても新たな読者に刺さり続ける理由なんだと思います✨