かぐや姫の物語がひどい?帝のアゴやラストが怖い理由を考察

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かぐや姫の物語がひどい?帝のアゴやラストが怖い理由を考 アニメ映画
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スタジオジブリの隠れた名作として知られる『かぐや姫の物語』ですが、ネットで検索すると「ひどい」という言葉が目について驚くことがありますよね。私自身も初めて観たときは、その独特な描写や救いのない展開に、思わず言葉を失ってしまった記憶があります。

なぜこの作品に対して「ひどい」という強烈な感想を抱く人が多いのか、その背景にはキャラクターデザインの違和感や、トラウマを植え付けるラストシーン、さらには莫大な制作費といった、いくつもの要因が絡み合っているようです。

高畑勲監督が手がけたこの遺作には、久石譲さんの音楽と共に、人間の業をえぐるような深いメッセージが込められています。この記事では、多くの人が衝撃を受けた帝のアゴの理由や、物語が描く罪と罰の正体、そして巨額の赤字を出してまで追求された芸術性について、私なりの視点で詳しく紐解いていきます。

  • 帝のアゴが非常に長く描かれた芸術的な背景
  • ラストシーンで流れる音楽が恐怖を与える理由
  • かぐや姫が地球で受けた罪と罰の解釈
  • 51億円という巨額の制作費が投じられた裏側
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かぐや姫の物語がひどいと言われる視覚的・心理的理由

 

映画を観たあとに残る、あの何とも言えないモヤモヤ感やショック。まずは、多くの人が直感的に「ひどい」と感じてしまう具体的な要素について深掘りしていきましょう。

帝のアゴが長すぎてひどいと感じる違和感の正体

ネット上で最もネタにされやすく、かつ「生理的に無理」という声が多いのが、劇中に登場する帝のアゴですよね。物語の終盤、かぐや姫に詰め寄るシーンでのあの鋭利で長いアゴは、シリアスな場面であるはずなのに思わず笑ってしまったり、逆にゾッとしたりするような異物感を放っています。

私たちが抱く「平安貴族=優美で丸顔」というイメージとはかけ離れたあの造形は、視聴者にとって強烈なノイズとなります。

あの極端に誇張されたアゴの造形は、帝という存在に対して観客が違和感や嫌悪感を覚えるよう設計されたものと解釈することができる。高畑勲監督は写実性よりも印象や感情を優先する演出を好んだことで知られており、帝を「理想化された権力者」としてではなく、どこか不気味で近寄りがたい存在として描こうとした意図があったと考えられる

プレスコ手法がもたらした中村七之助のリアルな表現

なぜあそこまで特徴的なアゴになったのか、その最大の理由は制作手法にあります。今作では、先に声を収録してから絵を描く「プレスコ」という手法が採用されました。帝の声を担当したのは歌舞伎役者の中村七之助さんですが、彼は非常にシャープなフェイスラインを持っています。

アニメーターたちは中村七之助さんの声の演技だけでなく、彼自身の骨格や口の動きを徹底的に観察し、それをキャラクターデザインに反映させました。つまり、あのアゴは声と絵を一体化させるための必然的な結果だったのです。

また、日本の伝統芸能である歌舞伎の世界には、アゴが長いことを一つの特徴とする美意識の系譜もあります。高畑監督は写実的なリアリズムよりも、対象の本質を誇張によって浮かび上がらせる表現を多く用いてきました。

本作における帝の造形も、そうした演出方針の延長線上にあるものと読み取ることができます。あれを見て「ひどい」と感じること自体、監督の演出にまんまとはまって、帝に対する嫌悪感を抱かされている証拠だと言えるかもしれません。

帝のアゴは嫌悪感を抱かせるための計算された罠であり、プレスコ手法や伝統芸能の影響によるものであることを説明する比較表のスライド画像 。

罪と罰の内容が曖昧でモヤモヤする救いのない展開

物語の根幹である「罪と罰」について、具体的な説明がない点にフラストレーションを感じる人も多いはず。私も最初は「結局、かぐや姫は何をしたの?」と疑問でした。劇中の描写から推察すると、罪とは「清浄な月の世界にいながら、穢れのある地球に憧れを抱いたこと」そのものを指しているようです。

そして罰とは、地球に下ろされて人間らしい感情を知り、愛着を持った瞬間に、そのすべてを剥奪されて強制的に月に連れ戻されるという、あまりにも残酷なプロセスを指します。記憶を消され、自分が愛した人々を忘れて無表情に去っていく姿は、ハッピーエンドを期待する視聴者にとって「ひどい」と感じるトラウマ級の結末ですよね。

捨丸とのシーンが不倫に見えてひどいという批判

終盤にかぐや姫が幼馴染の捨丸と再会し、空を飛ぶ幻想的なシーン。一見すると美しい場面ですが、ここも論議を呼んでいます。なぜなら、この時の捨丸にはすでに妻子がいるからです。

「奥さんと子供がいるのに、昔の女と空を飛んで抱き合うなんてひどい」という倫理的な批判が出るのは当然かもしれません。しかし、これは現実の出来事というよりは、かぐや姫が見た「もしもあの時、都に行かなければ得られたはずの幸せ」という悲しい幻影のようにも見えます。手遅れになった幸福を一度だけ見せて、すぐに奪い去るという演出は、高畑監督らしい容赦のなさが際立っています。

姫の罪(地球への憧れ)と罰(愛着の完全な剥奪)を解説し、捨丸とのシーンが「あり得たかもしれない幸福」の幻影であることを示すスライド画像 。

制作費51億円で赤字となった異例のビジネス面

作品の内容だけでなく、興行的な数字を見て「ひどい」と感じる映画ファンも少なくありません。本作に投じられた制作費は、日本のアニメ映画としては異例中の異例である約51億円と言われています。しかし、興行収入は約24.7億円に留まり、ビジネスとしては莫大な赤字を抱える結果となりました。

項目 内容
制作費 約51億5000万円
興行収入 約24億7000万円
制作期間 約8年

本作が商業的に大きな成功を収めたとは言い難いことは事実ですが、スタジオジブリの制作体制見直しや制作部門の一時的な解体については、宮崎駿監督の引退宣言や高畑勲監督の高齢化、業界全体の構造変化など、複数の要因が重なった結果とされています。本作の赤字がその背景の一つとして語られることはありますが、直接的な原因と断定することはできません

51.5億円の制作費と24.7億円の興行収入を比較し、鉛筆のタッチを活かす手法など、商業性より芸術性を優先した結果を説明するスライド画像 。

効率や利益を最優先する純粋なビジネスの観点から見れば、採算性の低いプロジェクトであったと言わざるを得ません。

一方で、スタジオジブリという制作環境のもとで、商業性よりも表現の到達点を優先する判断がなされた結果とも考えられます。が、これほどまでに採算を度外視して「美」を追求できたのは、ジブリという環境と高畑勲という作家の狂気的なこだわりがあったからこそでしょう。

かぐや姫の物語がひどいという感想に隠れた演出の意図

ここからは、多くの人が「怖い」「トラウマ」と感じた演出の裏側に隠された、驚くべき緻密な設計についてお話しします。ひどいと感じる感情こそが、実は作品を理解する鍵になっているんです。

ラストの天人の音楽が陽気で怖いと感じる音楽理論

多くの視聴者が最大のトラウマとして挙げるのが、月からの使者がお迎えに来るシーンで流れる音楽です。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されているのに、BGMはサンバのような底抜けに明るく祝祭的なメロディ。このギャップが「サイコパスみたいでひどい」「怖すぎる」という感想を生んでいます。

久石譲さんによるこの「天人の音楽」には、高度な音楽的計算があります。天人たちは悩みも苦しみもない、いわば「感情を克服した存在」です。彼らにとって、かぐや姫を月に連れ戻すことは純粋な喜びであり、善行なんですね。だからこそ、人間の悲しみに寄り添うマイナー調の曲ではなく、「情」や「煩悩」を一切排除した無垢な明るさが必要だったのです。この善意による残酷さこそが、私たちが感じる恐怖の正体です。

地上の阿鼻叫喚と天人の祝祭音楽のギャップを波形で表し、感情を克服した天人の視点による「無垢な明るさ」の残酷さを解説するスライド画像 。

記憶が消える残酷なラストシーンとトラウマの深層

ラストでかぐや姫に「天の羽衣」がかけられる瞬間、彼女の地球での記憶はすべて失われます。あんなに必死に生きて、喜びも悲しみも経験したのに、それらが一瞬で無に帰す。この展開は、仏教的な諦念(あきらめ)を感じさせ、現代人にとっては耐え難いほどの虚無感を与えます。

音楽的にも、冒頭から口ずさんでいた土着的な「わらべ唄」のメロディが、最後には月の洗練されたオーケストラに書き換えられていきます。これは、彼女の個性が奪われ、月の巨大な秩序に飲み込まれていく過程を耳からも体験させているのです。

地球は生き地獄という言葉に込められた高畑勲の哲学

劇中で「地球は生き地獄」という趣旨のセリフがありますが、これは作品の核心を突いています。人間社会はしがらみに満ち、思い通りにいかないことばかり。しかし、高畑監督が描きたかったのは、その「地獄」のような世界にこそ、生きる喜びや命の輝きがあるということではないでしょうか。

悩みも死もない月の世界は、美しく清らかですが、それは「生きていない」ことと同義です。かぐや姫が最後に地球を振り返って涙を流したのは、たとえ地獄であっても、泣いたり笑ったりできる人間として生きたかったという切実な願いの現れ。この実存的なメッセージが、私たちの心の奥底にある不安を刺激するため、反射的に「ひどい」という拒絶反応が出てしまうのかもしれません。

地獄のような世界にこそ生の輝きがあるという高畑監督の哲学と、最後に姫が流した涙の意味を解説するスライド画像 。

興行収入以上の価値を持つ芸術性と高畑勲の完璧主義

先ほど赤字の話をしましたが、高畑監督のこだわりは異常なレベルでした。従来のセル画のような「輪郭線を閉じて塗る」スタイルを捨て、鉛筆のタッチをそのまま動かすような気の遠くなるような手法に挑戦しました。背景とキャラクターを一体化させ、呼吸や体温まで感じさせるような映像。これには、並外れた技術を持つアニメーターたちの膨大な時間と労力が必要でした。

制作期間が8年に及んだことで、人件費は雪だるま式に膨らみました。一般的な映画製作では考えられないほどのコストがかかっています。数値データはあくまで目安ですが、数十億円規模の赤字は事実です。

しかし、この作品が後にアカデミー賞にノミネートされるなど、世界中で絶賛されたことを考えると、単なる赤字映画として切り捨てることはできません。ビジネスとしては「ひどい」かもしれませんが、人類が遺すべき芸術作品としては、プライスレスな価値があると言えるでしょう。

かぐや姫の物語をひどいと感じるのは心が揺れた証

結局のところ、多くの人が「かぐや姫の物語 ひどい」と感じてしまうのは、それだけこの映画が観る人の感情を激しく揺さぶり、無意識のうちに蓋をしていた恐怖や悲しみを引き出したからに他なりません。

帝のアゴに対する嫌悪感も、音楽に対する違和感も、すべては観客に「かぐや姫と同じ視点」を体験させるための、高畑監督による緻密な罠だったのです。そう考えると、ひどいと感じれば感じるほど、私たちは監督の意図通りに作品を深く受け取っていることになりますね。もしあなたがこの映画を観て心が深く傷ついたり、納得がいかないと感じたりしたなら、それはこの作品が持つ本物の芸術性に触れた証拠なのかもしれません。

正確な制作の裏話や公式な解説については、ぜひ公式サイトや関連書籍をチェックしてみてください。また、ここで述べた解釈はあくまで一個人の見解ですので、最終的な作品の評価はご自身の感性で判断されることをおすすめします。

「ひどい」という感情は監督の緻密な罠であり、かぐや姫と同じ視点を体験し心が揺さぶられた証拠であることを示す、円相と桜の花びらが描かれたスライド画像 。


※この記事の内容は一般的な情報や考察に基づくものであり、数値などはあくまで目安です。正確な情報は公式サイト等をご確認ください。最終的な作品の解釈や判断はご自身の責任で行っていただくようお願いいたします。